奥出雲町遺産 第7回認定

最終更新日:2026年09月18日

【認定No.78】三沢城址碑(推薦:要害山三沢城跡保存会)

三沢城址碑① 三沢城址碑②

 要害山頂上部に設けられた本丸の下手垣に立派な石碑が建てられています。高さ七尺(一尺:約30cm)、幅四尺、重量一千三百貫(一貫:3.75kg)、台石二千貫の石碑には、旧松江藩主松平直亮伯の筆で篆額が刻まれ、碑文は横山耐雪の書で記されています。この石碑は、今から105年前の大正4年(1915)、三沢氏初代の為長公600年忌を記念して糸賀多蔵氏が発起人となり、仁多郡内及び三沢村有志の賛助を得て建立された「三沢氏の功績を讃える碑」です。今を去ること700年前、三沢の中心にそびえる要害山に城を築いた三沢氏は、清和源氏の士魂を継ぎ、出雲最強の国人武将として雲・隠・伯(出雲国・隠岐国・伯耆国)に威をふるい、また内にあっては、野たたら製鉄により農地の開墾と領民の民生を計り、尼子と毛利の狭間で揺れながら、領内を平穏に守り抜いた戦国武将であったことを後世に伝える碑文が刻まれています。

 島根県指定史跡の地・三沢城跡(昭和39年に県指定された山陰屈指の名城で、三沢氏280余年の本城。山全体が要害化されており、本丸を中心に多くの郭(くるわ)が設けられていました。標高419m程の要害山ですが、眺望がよく、奥出雲町の大部分が見渡せます。)に建てられたこの石碑は、たたら製鉄の盛んな奥出雲の多くを領し、尼子氏を脅かす勢力を持っていた三沢氏の歴史を伝える貴重な遺産の一つにもなっています。三沢地区全戸が加入する「要害山三沢城跡保存会」では、郷土のシンボルである石碑を三沢地区民の誇りとして末永く管理していきたいと積極的な保存活動がなされ、今もなお地域全体で大切にされています。

 

【認定No.79】要害山の「美佐波薬」黄連群生地(推薦:要害山三沢城跡保存会)

要害山の「美佐波薬」黄連群生地① 要害山の「美佐波薬」黄連群生地②

 ヨモギや黄連など薬草効果のあることは知られていますが、大同3年(808)5月3日につくられた「大同(だいどう)類聚方(るいじゅほう)」という薬草医薬書に三沢の薬が登場しています。

 この書物は、延歴25年(806)3月17日に桓武天皇が亡くなる間際、側近の右大臣に全国の有益な薬を集めるように遺言として命令し、作られたものです。出雲国で薬として登場するのは37方ありますが、仁多郡では、唯一三沢の「美佐波薬」が記載されており、この良薬は、喉が痛む風邪に効き目があるもので、今は黄連と呼ばれていますが、当時は「可久万(かくま)久差(くさ)」と言われ、その調合方法も記載されています。

 薬を製造したのは、出雲国仁多郡三澤川勢長季と記され、三沢に生薬をつくりだし、処方することができる進んだ集団があったと思われます。

 この集団がどこにいたのか所在は不明ですが今も要害山の山麓にはたくさんの「黄連群生地」がみられ、かつての戦国武将三沢氏もこの生薬を使っていたのかもしれません。現在に至るまで大切に守られてきた要害山の黄連群生地を後世に繋ぐべく、要害山三沢城跡保存会では定期的に環境整備を行い、保護活動に取り組まれています。「変身」「胃腸を大事に」という花言葉をもつ黄連の花が咲く頃、足を運んでみてはいかがでしょうか。

 

【認定No.80】松原クメ女之碑(推薦:三沢地区下鴨倉自治会)

松原クメ女之碑① 松原クメ女之碑②

三沢地区下鴨倉公会堂の前に産婆さん(助産婦の旧称(現在は助産師))の業績を讃えた立派な石碑が建っています。

 石碑の表面には、次のように刻まれています。

松原クメ女之碑   島根県学務部長 松原久人 書

石碑の裏面には

 明治二十四年 産婆開業 以来四十二年間

 実ニ 二千数百人 産児ニ接ス

茲ニ 碑ヲ建テ 女ノ霊ヲ慰メ 其ノ功ヲ永久ニ 傳ヘントス

              昭和七年十一月 之建

発企人 松原正義・藤原長蔵・松原節郎・大坂 団・山崎茂富

 こどもが生まれる時には、「クメさんを頼め」と言われたほど非常に評判の良い産婆さんであったと伝えられています。おそらく、妊娠中の健康管理や産後の赤ちゃんとお母さんのケアも素晴らしく、命の最前線で取り組まれる姿が評価されていたのでしょう。世話好きで人々の信頼が厚いクメさんはお産の専門家として尊敬され、医療の乏しい山村で多くの命の誕生に貢献した明治生まれの一人の女性としてその業績を後々まで語り継ぐために、地元有志の発起によって昭和7年(1932)に建立されました。今もなお「クメばあさん」と偲ばれるこの偉大な産婆さんの石碑は、地元自治会の人たちによって現在も丁重に管理されています。

 

【認定No.81】四日市の高守神社(推薦:三沢地区四日市自治会)

四日市の高守神社(元宮) ① 四日市の高守神社(元宮) ②

 四日市自治会の真ん中に小高い山があります。そこに旧村社 高守神社がありました。勧請年代は不明ですが、雲陽誌(松江藩の地誌。享保2年(1717)に藩主が黒沢長顕、斎藤豊仙に命じ作らせた書。出雲国10郡545ヵ町村の詳細が記してあります。)にも記載される神社で、宝永9年(1713)3月6日から明治11年(1878)まで9枚の棟札が残っています。

 御祭神は少彦名命・五十猛命で、四日市村の氏神様でしたが明治40年12月28日島根県令により三澤神社に合祀されました。

 境内に、社日五柱大神・金刀比羅大神・稲荷大神の石碑があり、ほかに荒神、山神も祀られています。明治の頃の祭礼時には境内に露店が並び、結構賑やかで、相撲が行われました。一俵石、五斗石と呼ばれる石が残り、当時の力自慢の者たちが、この石を持ち上げては力比べをしていたとも伝えられています。また、荒神様は、根元が「杉」と「あすなろ」が連理木となった珍しいご神木で、吉兆とされています。合祀された後、旧社殿を燃やしたところ炎が竜となり煙を巻き込みながら、天高く舞い上がったとの言伝えも残っています。

 元宮のお祀りは、毎年12月初旬に三澤神社より宮司を迎え、全戸が参加して元宮祭りが行われ、今もなお大切にお守りし、受け継がれています。一説によると、要害山三沢城大手門口にあたるこの周辺で「四日ごと」に市が開かれていたことから「四日市」と呼ばれ、三沢氏時代は、この地方の中心地として賑わっていたと思われます。

 現在でも石段改修や周辺の竹藪切り整備などがなされ、地元住民によって大切に守られている神社です。

 

【認定No.82】原田の愛宕さん(推薦:三沢地区原田自治会)

原田の愛宕さん① 原田の愛宕さん②

 原田自治会の一番標高の高い山の頂に石碑が三基、ひっそりと建っています。これは、約十米四方の境内に並んで建っている愛宕神社石碑(刻彫あり)、縄久利社石碑(刻彫なし)、大山社石碑(刻彫なし)の三基であります。

 愛宕神社の祭日である8月16日には、蔭凉寺(臨済宗寺院)の住職を迎えて、毎年祭祀が行われています。

 昭和20年(1945)以前には、家ごとの名前で地割がなされ、座る場所が決められていたり、道の両側や広場に吊るされた門名や氏名の入った燈籠の下で賑やかに盆踊りをしていたと言われています。また、境内からの見晴らしは素晴らしく、三沢氏時代には狼煙台が備えられ西の要害山三沢城と東の三所の城山との連絡場所として砦の役目を果たしていたようです。

 頂上から、木次線を通る列車が見えた昭和50年後半頃までは、小学校の遠足の場所にもなっており、当時を懐かしむ人たち多く、地元では共通の思い出の一つになっています。

 昔は、旧原田村で祀りが行われていましたが、現在は旧林原村と共に、原田自治会全体の33戸一丸となり管理が行われています。これからも火伏の神様として末永くお祀りしたいと、原田自治会で大切にされている神社です。

 

【認定No.83】絲原武太郎像(推薦:八川地区自治会長会)

絲原武太郎像 

 八川小学校、八川幼児園間にある八川町民運動場(通称:わくわく広場)にほぼ実物大の立派な像が建てられています。これは、本町の経済の発展や教育・地方文化の振興に多大な功績を残し、郷土の生んだ偉大な指導者として称されている絲原家第13代当主、絲原武太郎(実名:徳次郎)氏の業績を讃えた石像です。

 明治12年生まれの武太郎氏は、令和2年12月に全線開通83年を迎えたJR木次線の前身となる「簸上鉄道」の建設に尽力し、鉄路による地域発展を願い、大正3年(1914)に私鉄簸上鉄道会社株式会社を設立。大正4年9月から工事に着手し、翌5年には宍道駅から木次駅までの21キロ区間で営業を開始しました。簸上鉄道はその後官営(国鉄)へバトンタッチされて、昭和9年(1934)に横田駅・八川駅までが、そして、昭和12年には備後落合駅までが開通し、悲願だった山陰と山陽を結ぶ木次線が完成しました。陰陽連絡鉄道を目指してから、実に、二十数年の長期を要しての悲願達成は、関係者はもとより沿線住民の喜びは大きく、盛大な全線開通の祝賀式が行われました。

 当時の物流は道路事情も悪く、貨車運搬がほとんどであったことにより、山深い奥出雲の開発発展や経済活動、文化の交流に大きな役割を果たしたことはいうまでもなく、豊かな消費生活を営むことができるようになりました。こうした偉業を称え、地区の人々により昭和9年に旧八川中学校に絲原武太郎の銅像(当時の銅像は、シルクハットを手にした洋装姿でした。)が建設されましたが、戦中下に軍用資材として供出されました。現在の石像は、昭和29年4月に同所に再建されたものです。

 

【認定No.84】八川小学校の大銀杏(イチョウ)(推薦:八川地区自治会長)

八川小学校の大銀杏(イチョウ)① 八川小学校の大銀杏(イチョウ)②

 町立八川小学校の校庭にそびえ立つ3本の大イチョウは、八川地区のシンボルとして永く地区民に愛されてきました。春の鮮やかな緑、秋には一面に広がる黄金のジュウタン、そして、全校生徒で収穫し、学習発表会の際に並ぶ銀杏の実は毎年の風物詩でもあります。八川小学校で学び、卒業していった生徒にとっても、地元愛に繋がる一番の風景となっています。

 3本のうち最も古い巨木については、八川地区小八川集落の草坂の谷で営まれていた「荒木植物園(荒木兵馬氏 明治37年尋常小学校卒業)」が閉鎖されるにあたり、当時の小八川青年団員の松原林三郎氏他有志の手によって、譲り受けた樹齢20年前後のイチョウの木を大八車(江戸時代から昭和時代初期にかけての日本で荷物の輸送に使われていた総木製の人力荷車。)2台を連結させて八川小学校まで運び、植栽されたものであるという逸話があります。以来、地元住民らに見守られながら100年以上の歳月を重ね、現在の見事な姿に生長したこの大イチョウは、今では、町内外から多くの人々が写真撮影等に訪れる紅葉名所にもなっています。さらに、トロッコ列車から眺める大イチョウは格別で、奥出雲観光の一つのスポットとして好評を得ています。

 長い歳月にわたり八川の子どもたちの成長を見守り続けているこの大イチョウは「小学校児童と共に、今後も八川の宝として大切にしていきたい」との八川地区の皆さんの熱い思いが寄せられている名樹です。

 

【認定No.85】湯ノ廻「大歳神社と神木エノキ」(推薦:馬木地区旭自治会)

湯ノ廻「大歳神社と神木エノキ」① 湯ノ廻「大歳神社と神木エノキ」②

 寛永元年(1624)、備後国より移住し、農業やたたら製鉄業を営み、最晩年の棚田百選「大原新田」に見られる多くの農地を造成し、農業を盛んにしていった絲原氏が五穀豊穣を願い屋敷の一画に建立したのが大歳神社であり、隣接する神木エノキとともに、現在も地域住民によって毎年祀られています。特に、樹冠幅約20m、樹高15m、目通り直径約1.2mのエノキは樹齢こそ80年余ですが、偉容を誇る大樹であり地域の歴史の象徴となっています。

 神社前の石碑には、昭和13年5月8日の日付で「絲原邸旧蹟」として絲原家の由来が刻まれています。そして、神社の由緒書には『寛永元年初代善左衛門が邸内鎮守を祀った。旧木は老齢で腐食もあったところ、大風で倒壊したので新たな幼木を植える。絲原家13代武太郎が再整備し祀る。昭和13年10月10日』旨の記載があります。これらの記録や地元住民の史実調査に基づくと、絲原家が江戸時代中期に大谷にたたらの主力工場(高殿)と居宅を移転してから、邸内神として祀られてきた大歳神が荒れ気味になっていたところ、13代武太郎の手により昭和13年に再整備されると同時に現在のエノキが神木として植えられたそうです。ただ、倒壊した旧木も神木であったかは定かではなく、生えていた位置等から推測すると当該地は西風が厳しかったため、屋敷外の防風林であった可能性も否めません。また、神社の由緒書には執行者として「小作人頭」の名も記載されていることから、神社では従前から地域の関係者(小作人)も祀りの担い手であったと思われます。本来は絲原家のみの邸内神であったものが幾多の変遷を経て地域の守り神として昇格・解放されて以降、湯の廻集落を含めた地元住民によって大切に守られ、今日に至るまで祀られています。

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