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奥出雲町遺産 第5回認定

最終更新日:2019年4月1日

【認定No.58】三沢町の恵比寿さん

三沢町の三澤神社正面参道入口に、地域で恵比寿さんと呼ばれている恵比寿神社(事代主神社)が祀られています。創建年代は不明ですが、残されている棟札に天明7年(1787)のものがあることから、少なくとも230年以前であると考えられます。また、創建当初は他の場所にあり、明治40年に現在地に移転されたと伝えられています。恵比寿はもともと漁民や海人の信仰だったものがやがて商業や農業の神様にもなったとされ、異人を意味する「夷(えびす)」が語源とも言われています。異界から来て幸をもたらす神というイメージでしょう。三沢はかつて横田と仁多郡を二分する賑わいであったと言われています。三沢町の恵比寿神社は、小規模ではありますが社殿の意匠や台座の石組みは細部まで丁寧につくられている立派なもので、三沢町の市神として大切にされてきたことがわかります。

 

【認定No.59】三沢町のとんどさん

1月15日は元日の大正月に対して小正月と呼ばれ、小正月前後には町内各地でとんどさんの火を見ることができます。田んぼなどに青竹を立て、その根もとに各戸から持ち出した正月飾りなどを置いて燃やし、地域によって違いますが竹が燃え尽きる前にその年の恵方に倒したり、倒れた方角で一年を占ったりします。また、その火で焼いた餅・スルメ、ミカンを食べるとともに、とんどの炭で体に炭付けをすると、無病息災に過ごすことができるとされています。この行事は古くは平安時代の記録にも登場し、宮廷行事の一つであったようですが、その後「どんどん焼き」「左義長」など地方によって呼び名は違いますが各地に広まり、日本全国で行われています。他方、正月は、古代中国から太陰暦が伝わる前は、満月の日つまり太陰暦でいう15日が年初であったものが、暦が伝わって年初となる日が移動したことにより、正月が大正月と小正月の2つに分かれたと理解されています。つまり、とんどさんは中国から暦が伝わる前の元日に行われていた行事の名残と考えられます。各地で行われるとんどさんには一定の形式がありますが、三沢町のとんどさんは「とんどさん」と呼ばれる小宮がある点が特徴で、とんどさんの際に持ち出して祀っています。小宮の中には年神であるとんどさんを祀っていることを意味する「歳徳大明神感應守護」と記された棟札があり、奥出雲に伝わるとんどさんを理解する上で重要な遺産となっています。

 

【認定No.60】三沢薬師堂

三沢の運動広場の上に幅2m余りの薬師堂があります。この薬師堂には次のような由来が伝えられています。三沢氏がこの地を治めていた戦国時代には広恩寺というお寺があり薬師如来が祀られていましたが、三沢氏がこの地を去って以降、荒廃していました。これを見かねた土地の所有者が独力で再建し、明治の廃仏毀釈による一次的な廃堂があったものの、明治13年には許可を受けて再建され、以後今日までお守りしているとのことです。現在の堂内部には薬師如来像のほか観音菩薩像や地蔵菩薩像などの木造が安置され大切にされているほか、薬師堂の脇の湧き水は薬師水と呼ばれることもあり、かつては飲用されていたようです。

薬師は衆生の病根を救い現世利益をもたらす仏として古くから信仰されました。日本最古の薬師像は法隆寺金堂にある銅造薬師如来坐像で、飛鳥時代の作とされ国宝にも指定されています。法隆寺の薬師如来像は用明天皇の病平癒のために造像が企てられたもののようです。薬師如来像は健康を願う人々の切なる願いを反映して広く信仰されました。

 

【認定No.61】原田の一畑さん

一畑さんは、島根半島にあり「目のお薬師様」として広く知られる一畑寺を本山とする信仰で、親しみを込めて「一畑さん」と呼ばれ各地で信仰されています。原田の一畑さんは、少なくとも天明9年には存在していたと伝えられ、かつてのお堂は大畑峠にありましたが、平成18年8月に現在の原田自治会公会堂の敷地内に移されました。集落内で特定の寺社に対する信仰の篤いもの同志が集まって共に崇敬することを「講」と呼び、一畑さんの場合は「一畑講」などと呼ばれました。講では構成員がお金を出し合い、講の中から選ばれた代表者が本山に参拝する慣行があり、また、講の構成員間における金融手段としての機能を持つ場合もありました。原田自治会の一畑講では明治20年から現在までの講帳が保存されており、集落の歴史がわかる貴重な記録ともなっているほか、現在でも毎年8月7日にお坊さんをお迎えして講祀りがされているようです。

 

【認定No.62】四日市の円正堂

三沢氏の拠点であった要害山の懐に十一面観音を本尊とする円正堂と呼ばれるお堂があります。創建年代は正確にはわかりませんが、この場所は三沢氏の時代には堂丸砦と呼ばれる防衛拠点があったようです。一方で雲陽誌の四日市の項目に記載されている「観音堂 圓正寺といふ」に関係するとみられ、300年前には既に存在していたことなどをあわせ考えると、戦国時代末期から江戸時代前期の創建ではないかと考えられます。また、このお堂の近くには三沢氏の墓地があり、墓地の存在とお堂の創建には何らかの関係がある可能性もあります。このお堂は旧仁多札三十三か所霊場の三十二番札打ち寺でもありました。仁多札とは、主に農作業の始まる前の春ごろに、仁多郡内の一番から三十三番までの寺々を巡り、後生安楽を願って札を治める巡拝で、連れ立って札打ちに出るのは楽しいものだったようです。かつては1月16日と、8月16日にお坊さんを迎えての読経があり、不定期にはなったものの現在でも続けられるなど、大切にされています。

 

【認定No.63】穴観一号墳と穴観二号墳

三沢にある穴観古墳は、奥出雲町で発見されている古墳のなかでも大きな石室を持つ古墳として知られています。出雲国風土記が編纂された奈良時代には、仁多郡には4つの郷があり、それぞれの郷に有力者がいたと考えらえます。郷土史家であった故高橋一郎先生は、4郷のうちの一つである三澤郷は、風土記仁多郡の条に記載される郡司のうち次官にあたる少領の出雲臣が治めていたのではないかと推定されていますが、穴観古墳は古墳時代にも三沢に有力者がいたことを示し、あるいはその後の郡司の一族にも関連しているのかもしれません。穴観古墳は従来、1号墳は円墳とされ、2号墳は前方後方墳とされてはいましたが、2号墳は墳墓の半分が鉄穴流しによって削られたため原型がわからない状態になっていました。しかし近年、改めて調査が行われた結果、2号墳については前方後方墳であったと再確認されたほか、1号墳については前方後円墳であった可能性が浮上しています。もし前方後円墳である場合、墳丘の大きさもこれまで考えられていた規模より大きくなり、1号墳についても奥出雲町でも指折りの規模の古墳であることになります。

 

【認定No.64】湯野神社

亀嵩温泉から川を挟んで向かいの国道沿いに湯野神社があります。出雲国風土記にも湯野社として記載されており古代から続く神社であることがわかりますが、現在の場所に移転したのは鎌倉時代で、それ以前は約100m東に社殿があったとされています。亀嵩温泉の守護として創建されたと伝えられていますが、亀嵩温泉のように古代から湧出し知られてきた温泉は、大己貴命と少彦名命が祀られていることが多く、湯野神社にもこの2神が祀られています。棟札の記録や雲陽誌などを見ると江戸時代は大森大明神の名で呼ばれ、風土記の名前にあわせた現社名になったのは明治時代になってからのようです。また、社叢には町の天然記念物にもなっている大きなケヤキや杉の巨木が繁るほか、周囲のモミ林は郷土景観を代表する植物群落であるとして環境省の特定植物群落にも選定されています。参道には3つの鳥居がありますが、2つ目の鳥居には宝永5年(1708)の年号が刻まれるほか、同時代に櫻井家や絲原家とともに松江藩からたたらの操業を許された鉄師で、亀嵩を拠点とした伊豆屋一族の名前なども刻まれ、時代の有力者にも崇敬されてきたことを伺わせます。雲伯出世相撲も有名で古くから行われてきたようです。

 

【認定No.65】大殿宝篋印塔

田高校の近くの小山の上に、地元では「大殿さん」と呼ばれ親しまれている宝篋印塔があります。地元では、源平争乱の頃、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の一族がこの地に流れてきたものの、地元の農民の密告によって討伐されて自害し、これを弔うために宝篋印塔が建立されたと伝えられています。このため「大殿」とは、平家一族のことを指すようにも思われますが、一方でこの地は、中世に三沢氏によって地位を安堵された有力者で、たたら製鉄も営んだ大催氏が本拠とした地でもあり、付近にある大催氏がかつて整備したとされる水路が現在でも大殿水路と呼ばれていることも注目されます。もしかしたらその建立に大催氏が関与している可能性もあるのかもしれません。このような伝承を持つこの宝篋印塔は、以前は荒廃していましたが昭和24年に所有者の方々によって復元され、以来今日に至るまで大切にされています。

 

【認定No.66】産湯の池と稲田神社元宮

現在の稲田神社から少し離れた田んぼの傍らに稲田神社の元宮があります。付近には「産湯の池」と呼ばれる小さな池があり、アシナヅチとテナヅチが農作業に出かけたおりにこの池のほとりで産気づき、産まれた子供を稲田姫と名付けこの池を産湯として洗ったと伝えられています。創建年代については、文政5年(1822)に夢のお告げによりこの地を掘ったところ剣や鏡、玉が出土したことが発祥とする説、享保2年(1717)に編纂された雲陽誌の稲田の項にある「矢入明神 神号いまた考す、二尺はかりの祠なり」との記載が現在の稲田神社にあたるので少なくとも300年は遡れるという説、この付近から弥生土器などが出土しており、祭祀遺跡ではないかとも考えられていることから古代から祭祀に関係した何かがあったとする説など、様々な説が示されており結論は出ていません。また、地区名の「稲田」との関連も気になります。この地も稲田神社と同じく地元で大切にされてきましたが、近年ではこれらの伝承地を活かした地域おこしも盛んに行われています。

 

【認定No.67】稲田の笹宮

稲田神社に続く道の途中に、「笹宮」と呼ばれている笹をご神体とする宮があります。稲田神社元宮の伝承と関連しますが、稲田姫が生まれた際に元宮の近くにあった竹でヘラをつくり、へその緒を切り、そのヘラをさかさまに刺しておいたところ、そこから笹が生えだして繁茂したものを祀ったものとされています。信仰の始まった年代については元宮と同じく不明ですが、これらの伝承地は、現在の稲田神社の立派な社殿と一体的に考えた際により価値が高まるものと思います。現在の社殿を築き、稲田神社発展の礎を築いたのは、奥出雲にルーツを持ち、祖父が奥出雲でたたら製鉄をしていたと伝えられる小林徳一郎が、昭和6年から新たな社殿を普請したことによります。

 

【認定No.68】稲田大山神社

稲原、蔵屋、小八川集落の境となる標高660mの山上に、各集落から尊崇を集めた稲田大山神社と呼ばれる祠があります。大山信仰は伯耆国(現在の鳥取県)大山の山頂に現れた万物を救う地蔵菩薩への信仰から始まり、平安時代末以降、牛馬のご加護を願う人々の信仰へとつながって各地に広まっていきました。牛馬は仁多郡でもたたら製鉄と関連しながら盛んに育成されたため、大山信仰も「認定No.47真地の大仙さん」ほか町内各地に広まっています。江戸時代には横田町、三沢町、亀嵩町の3町に牛馬市が立って賑わっていたようです。稲田大山神社の創建は江戸時代後期とされ、勧請にあたっては石仏とともに伯耆の大山神社に参詣して入魂を受け、伯耆大山が望める現在の地を遙拝所として祀ったとされています。また、地元には「明治六年四月廿四日 大仙神社 願主村中」と記された大幟が保存されています。山上の祠には現在も石仏が安置されており、直近では平成13年に遷宮が行われるなど、今なお大切にされています。

 

【認定No.69】稲田愛宕神社

稲田神社元宮近くの小山の上に愛宕神社の祠があります。愛宕神社は火伏せの神様として知られ、町内各地でも祀られています。稲田はかつて鉄穴流しの盛んで、町内でも有数の規模で地形が改変された土地ですが、愛宕神社にもその特徴がよく表れています。稲田の愛宕神社は江戸時代末までは現在地の東にある日出山の山麓にありましたが、鉄穴流しによって棚田が広がり、集落が横田の街に向かって広がっていく中で、新たな集落の中心に近い現在地に遷宮されたと地元では伝えられています。一方で、現在地も鉄穴残丘の上であるとみられることから、それ以前にも地域で大切にされてきた何かがあったのかもしれません。祠の中には4枚の棟札が安置され、古い順に安政3年、明治18年、昭和40年、平成11年となっており、現在も自治会でお祭りしているなど、世代を超えて大切にされてきた遺産です。

 

【認定No.70】牡牛仁兵衛が運んだ石

小馬木の小林城跡近くにある、上市という集落の田んぼの脇に「牡牛石(こっていわ)」と呼ばれる平たい石が佇んでいます。この石は、昔、水路を渡る石橋として使われていた石が立て置かれているもので、次のような言伝えが残っています。昔、仁兵衛という、強力の者として知られた者がおり、この石を馬来氏の居城であった矢筈山のふもとから一人で担いできました。仁兵衛が大馬木から小馬木の小林城跡近くの弓場というところまで石を背負っていく道中、牡牛に米を背負わせた人に行き合い、道が狭かったため、仁兵衛は牡牛と米を一緒に持ち上げ、脇に寄せて通って行きました。その強力ぶりから、以来、牡牛仁兵衛と呼ばれるようになったと言います。また、いつ頃からか仁兵衛さんの強力ぶりにあやかり、喘息などの咳が出る人が線香をたててお祈りをし、この石を洗うと咳が治るといわれるようになり、ひと昔前までは実際にこのようなことをする人もいたといいます。「こってい」とは、「コト(殊)オヒ(負)」が語源とも言われ、重荷を背負う強健な雄牛のことを言います。奥出雲では、たたら製鉄でできた巨大な鉄滓塊を「こって鉄(がね)」というなど、大きさや力強さの比喩としてよく使われた表現でした。

 

【認定No.71】小林の馬来氏関連伝承地

戦国時代の馬木は、戦国武将の馬来氏が本拠を置いたことで知られています。馬来氏は、戦国大名尼子氏が月山富田城の防衛上の拠点として置いた家臣団「尼子十旗」の一つにも位置付けられ、主に毛利氏の備後方面からの侵入を意識して国境の守りを固めていたと考えられています。馬来氏の本城は当初、夕景城にありましたが、天正8年(1580)、小馬木に小林城を築いて移ったとされ、小林の周辺には、馬来氏の歴史を伝える伝承地が点在しています。小林城跡から小馬木川を挟んで反対側の山を少し上がったところに削平地が2段あり、地元では上の段が瑠璃院跡と呼ばれ馬来氏に関連したお寺の跡、下の段が岩田屋敷と呼ばれ馬来氏の別邸があったと伝えられています。雲陽誌や旧鉄師の杠家が残した杠日記を見ると、「古屋敷」や「岩田居住」などの記載があり、これと関係しているのかもしれません。また、小林城跡の下手には弓場と呼ばれる場所があり、ここから反対側にある弓が迫の名がある水田に向けて馬来氏が弓の試し打ちをしたと伝えられています。馬来氏は尼子・毛利両氏の争乱の中にあっても国境の地の利を生かして馬木の地を守り、馬木の地に大きな足跡を残しました。近年、馬木では馬来氏の事績を顕彰する取り組みが盛んに行われています。

 

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