奥出雲町遺産 第4回認定

最終更新日:2019年4月1日

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【遺産認定No46】りゅうわさんの雨乞い神事(推薦:阿井地区奥湯谷上自治会)

雨乞い神事

奥湯谷上の小高い場所に、地元では二柱神社と呼ばれる祠があり、次のような話が伝えられています。明和4年(1767)に地域が大干ばつに襲われた際、春の雪解け水によって田植は済ましたものの、以降一滴の雨も降らず田にもひびが入る状況でした。このままでは収穫ができない恐れがあるため、各地で雨乞いが行われたものの効き目は全くありませんでした。7月になり、雨乞いの祈りに疲れて眠っていた住民の枕元に、仙人姿の白髪の老人が立ち、家の庭田の横にある青い縞石を神体として祀れば明日にでも雨を恵んでやるとご宣託がありました。そこで、夢に示された場所に行ってみると青い縞石があり、これこそご神体だと確信して奥湯谷中の百姓で小さな社殿を構え祀ったところ、3日後に雨が降り田畑が潤されました。その後、干ばつが予想される年には、みの笠を見に着けて雨乞いを念じて踊れば雨に恵まれると信じ、狭い境内に溢れるほどの人が集まって踊られるようになったそうです。地域の切なる願いが捧げられた祠は、地域住民によって今でも大切に守られています。

【遺産認定No47】真地の大仙さん(推薦:阿井地区真地自治会)

大仙さん

真地にある山の上に、地元で大仙さんと呼ばれている場所があります。複数の石碑と1つの祠が集まった場所で、石碑は「大仙宮」「琴平宮」「厳島神社」などと記されており、祠は愛宕さんと呼ばれています。勧請年は、愛宕さんは不明ですが、石碑の設置年は大仙宮が明治5年、琴平宮と厳島神社は明治28年となっており、段階的に増えていったようです。大仙さんは牛馬の神ですが、真地では同じ牛馬の神である縄久利さんと同一視され、縄久利さんとも呼ばれています。また、愛宕さんは火防の神、琴平宮や厳島神社は海運や航海安全など本来は海に関連した神ですが、雨乞いなどを願い山間部にも勧請されたと思われます。また、複数の神が山の上に集められているのは、遠くの本山まで行くことができないため、近隣の山上から逢拝していたためでしょう。大仙さんは、かつてこの山の下にあった牛馬市に関連して祀られるようになったと思われます。近くには鉄師櫻井家もあり、鉄の運搬に必要な牛馬を扱う市場は賑わったことでしょう。この地は地域の歴史を伝えるとともに願いが集まる場として大切にされています。

【遺産認定No48】加食の蔵王権現(推薦:横田地区加食自治会)

蔵王権現

加食と大内原の境にある権現山の中腹に巨岩「天狗岩」があり、その傍らに蔵王権現を祀る小さな祠が鎮座しています。雲陽誌(1717)にも「社の山上に高さ三丈横八間の巨岩あり、此所より備後伯耆両国見ゆる、誠に近村の高山なり」(三丈=約9m、八間=約14.5m)と記載されており、また、山の名前自体が「権現山」となっていることも考えると、巨岩天狗岩は古くから知られ、また、影響力も大きかったことが窺い知れます。付近には巨岩の一部をくりぬき、天然の湧き水で常に満たされている手水鉢もつくられており、神秘的な空間となっています。蔵王権現は全国的には山岳信仰である修験道の本尊として知られていますが、巨石が特徴的な加食の蔵王権現は、自然崇拝の一つである巨石信仰として始まり、その後、蔵王権現と結びついていった可能性も考えられます。また、蔵王権現は神仏習合の歴史の中で安閑天皇と同一視されてきたため、明治の神仏分離令以降、蔵王権現は安閑天皇と名を変え守られました。明治41年には大曲の本山神社に合祀され、以後今日に至るまで地元において大切に敬われています。

【遺産認定No49】尾白のオキナグサ自生地  (推薦:三成地区尾白自治会)

オキナグサ自生地

尾白には、春になると奇麗な赤紫色の花をつける「オキナグサ(翁草)」の群落があります。果実に白く長い毛ができ、あたかも白髪のように見えることが語源で、約1300年前に編纂された出雲国風土記仁多郡の条にも「白頭公」として、32種類しか記載されていない草木のうちの一番最初に記載されるなど歴史ある植物です。かつては止血や止瀉の効能がある薬草として珍重され、延喜式(927)によれば、出雲国から朝廷にも献上されていたようです。ところが現在、オキナグサは絶滅の危険が増大しているとして、絶滅危惧II類に指定されています。オキナグサは日当たりのよい場所を好むため、自然に人の手が入りにくくなり、オキナグサより丈の高い草が繁茂したり、人為的な採取によって減少していると言われています。こうした中、尾白自治会では道路拡張の際に工事予定地内のオキナグサを移殖したり、生息地を定期的に草刈りするなど積極的に保護活動に取り組まれています。オキナグサの群落の存在は、自然を愛し地域をあげた熱心な保護活動が実を結んでいることの確かな証明でもあります。

注:オキナグサは絶滅危惧種です。人為的な採集は減少の大きな要因となっていますので、地元や地権者の方に断りなく採集を行ってはいけません。

【遺産認定No50】三成開町300年記念碑(推薦:三成地区三成本町自治会)

記念碑

「三成」の名は、三つの沢が埋まって出来たという「三つ成る」の意味に由来するとも言われます。風土記の時代には三沢郷の一部であったこの地に町ができたのは、斐伊川を使って船で物資を運ぶため、寛文4年(1664)に川方と呼ばれる役所が設置されたことに始まるとされています。萬治3年(1660)に郡奉行としてやってきた瀧野九郎左衛門は、川方の設置にあたり、備中の喜兵衛という堀り子技師を招致するとともに、下阿井村山根から16軒を三成に移転させたとも言われています。また、当時は三成にお寺はありませんでしたが、川方の設置にともない、寛文7年(1667)に三所の石原から善勝寺が移転しています。この記念碑は、川方設置から300年目となる昭和39年(1964)に設置されたもので、揮毫は、当時の労働大臣で父が三成出身の大橋武夫によって書かれています。大橋武夫は、昭和20年の三成町大火後の町の再建にも貢献し、三成のメインストリート「大橋通り」の由来にもなっています。この碑は、大火から復活を遂げ、これからのまちづくりに情熱を燃やす地域の気概をも伝えているかのようです。

【遺産認定No51】三成の毘沙門天王堂 (推薦:三成地区三成本町自治会)

毘沙門天王堂

三成の町の中にひっそりとたたずむこのお堂は、言い伝えによると、三成に川方が設けられ、斐伊川の水運で賑わっていたころ、船頭達が福徳招聚、諸願成就を祈願して毘沙門天王を勧請したものとされています。その後、斐伊川はたびたびの洪水によって河床が埋まり、そのたびに運送の中止と再開が繰り返されましたが、ついに享保8年(1723)には水運が廃止され、以後は佐白村を経由しての陸路での輸送に切り替えられました。また、120年後の天保14年(1843)にも河川改修を経て再び通船が試みられましたが、改修不十分のため船が破損し、遂に再開されることはなかったようです。一方、三成の町は船運の廃止後も仁多郡の交通の要衝として順調に発展し、天明4年(1784)には郡役所である郡家が横田から移転しています。毘沙門天王は船運廃止の際に地元の方が本願主となったと言い伝えられ、平成元年にはお堂が再建立されるなど、今日に至るまで大切に守られています。商売繁盛の神でもある毘沙門天王は、今もなお仁多地域の中心として商店が集まる三成らしい神であると言えるのではないでしょうか。

【遺産認定No52】三成愛宕祭り (推薦:三成地区三成本町自治会)

三成愛宕祭り

三成の愛宕神社は、度重なる大火から町を守るため、火防の神である愛宕大権現を正徳元年(1711)に京都から勧請し、市街を見下ろす標高253mの山の上に建立したことが始まりと言われています。毎年8月24日、25日に開催される「愛宕祭り」は、輪番により氏子から選ばれた5人の当家が取り仕切って行われ、雲南地方最大級の祭りとして知られ多くの人で賑わいます。祭りの見どころの一つが、愛宕山頂に築かれ、ひときわ目を引く「幻の一夜城」です。渋紙で描かれた一夜城は、三成の若者が地元の人を驚かせようと祭りの前夜に神社前にやぐらを組んで張り付けたのが始まりと言われています。昭和20年の三成町大火によって、以前使われていた紙製のやぐらは焼けてしまいましたが、昭和29年には布でつくりなおされ、以降、昭和63年、平成28年と2度にわたり新調されています。布製3代目となる現在のやぐらは幅17.6m、姫路城がモデルと言われています。照明によって明るく輝く一夜城の下を多数の人が行き交う光景は、奥出雲を代表する夏の風物詩となっています。

【遺産認定No53】堅田の狼社(推薦:三沢地区堅田自治会)

狼社

堅田に「狼社」と呼ばれる社があり、次のような言伝えが残されています。「昔、堅田の里では牛馬の放牧がなされていましたが、毎年狼に襲われ悩まされていました。堅田村の犬兵衛という人が、これはかつて大切に祀られていたものの今は祀る人もいなくなり荒廃している狼社を疎かにしたためではないかと、鎮守狼社として修復し、他の村人と共に信心したところ牛馬に狼の害がなくなりました。」このような言伝えから、今でも12月13日を祭日として地域で大切に祀られています。日本に生息していたニホンオオカミは、20世紀初頭に絶滅したとされていますが、かつては身近な生き物でした。オオカミは歴史の中で神聖視され、幅広い地域で信仰されていますが、オオカミが神格化した存在を「真神(まかみ)」と言い、堅田の狼社にも真神社という別名があるようです。ただ、他の地域は害獣である猪などから田畑を守ってくれる存在として神聖視されているケースが多いと思われるのに対し、堅田の狼社は家畜を襲う困った存在で、鎮めるために祀ったという点で経緯が異なり、民俗的にも興味深い伝承となっています。

【遺産認定No54】河内の王子権現(推薦:三沢地区河内自治会)

王子権現

河内にある阿井川ダムの近くに、王子権現さんと呼ばれる社があります。社殿は木と岩に囲まれ、滝の音に包まれた小渓谷の中の、見上げるほどの巨岩の前に鎮座し、神秘的な空間をつくりだしています。社名から、神が子どもの姿で現れるとする王子信仰と関係があると思われますが、巨石の前に社がありますので、こちらも加食の蔵王権現(奥出雲町遺産認定No.48)と同じく巨石信仰から始まったのかもしれません。地元に伝わる資料には「勧請年代不明 先年ヨリ王子権現ト奉称候共 権現号ニ付ク 去ル年社改易也候」と記載されており、正式な社名は事解男社であるそうです。

雲陽誌(1717)を見ると「速玉男事解男伊弉冉をまつる、二尺ばかりの社なり、祭日九月十九日」と記載されていますので、勧請年は不明ではあるものの、少なくとも300年以上前には既に社があったこと、また、二尺ばかり(約60cm)との記載がありますので、古くから現在と同じような規模であったことがわかります。壇石には「全村中」と書かれ、昔から地域全体で大切にされ続けていることがわかる遺産です。

【遺産認定No55】神々が集う“寄りんさん”(推薦:三沢地区原田自治会)

寄りんさん

原田には、地元で「寄りんさん」と呼ばれ、町の名樹百選にも記載される杉の大木があります。付近には、出雲風土記に記載されるアジスキタカヒコノミコトが沐浴をして健康を取り戻したといわれる清水の比定地の一つである「三津池(奥出雲町遺産認定No.25)」があるなど、神話の地となっています。この「寄りんさん」には次のような言い伝えがあります。毎年旧暦の10月、神在月に全国の八百万の神々が出雲に集まられる際、この「寄りんさん」に集合してから出雲大社に向かわれるのだそうです。また、神楽去出さんの日(全国に神々をお見送りする日)に、簸川郡の万九千神社から神立橋を渡って、「寄りんさん」で一旦休息された後、それぞれのお宮へお帰りになるとも言われています。この伝承は、雨川の「寄合が廻(奥出雲町遺産認定No.39)」に伝わる伝承との類似性が認められるなど、民俗的に見ても興味深いものとなっています。巨木信仰は世界中にあります。中世の出雲大社も巨木を束ねた心御柱の上にあり(出土した柱の根元部分は国の重要文化財に指定されています)、本殿の高さは48mとも言われています。天に向かって太く高く伸びる巨木に、先人たちは力強い生命を感じてきたのでしょう。そして今もなおこの木と周囲の史跡の一帯は、地元で大切に守られています。

【遺産認定No56】布広城跡(推薦:三沢地区下鞍掛自治会)

布広城跡

戦国武将三沢氏が本拠を置いた三沢城の近くに、布広城と呼ばれる城跡があります。三沢氏五代尾張守為忠の弟の子が分かれ、三沢城大手門から東へ約600m、三沢の町のすぐ西の郭に居を構えたのが始まりと言われています。雲陽誌にも「古城布広山といふ、三澤氏の麾下(家来)代々在城す」と記載されています。三沢城と三沢氏の館に向かう要衝の守りを固めており、三沢城の出城という位置づけながら本丸や横矢掛り、矢倉台などの城郭遺構を残しています。布広氏は三沢氏の一族であり、家臣中最高の禄を受けていました。雲陽軍実記には三沢氏家臣として毛利氏と戦った武勇が記録されているほか、前布施の水手山城跡や、琴枕の鍋坂城跡も布広氏が治めた城跡と言われ、主君三沢氏の信頼も厚く繁栄していたと思われます。一方、永禄4年(1561)の毛利軍の出雲侵攻を機に三沢氏は毛利方となりますが、布広一族の布広左京亮は尼子方に寝返って鍋坂城に籠もり三沢氏に討伐されたと伝えられ、その悲話は赤子岩伝説として語り伝えられています。また、月山富田城落城時の武将の中にも布広一族の名があるようです。

【遺産認定No57】堅田・上鞍掛の愛宕大権現(推薦:三沢地区堅田自治会・上鞍掛自治)

愛宕大権現

堅田と上鞍掛の堺の独立した山の上に、火防の神である愛宕大権現が祀られています。社の中には木仏4体と石仏1体が収められており、地元では「愛宕さん」と呼ばれて親しまれ、両自治会で大切にされています。勧請年は不明ですが、読むことが可能な最も古い棟札は明治44年のものであり、再修覆したと記載されていますので、この年より相当前には既に存在していたことは確実です。一方、近隣の三成の愛宕さんが正徳元年(1711)の勧請で、雲崎の愛宕さん(奥出雲町遺産認定No.43)が文久元年(1861)の勧請と思われることや、雲陽誌の仁多郡の項には愛宕さんに関する記載が全くないことなどを考えると、愛宕信仰が奥出雲で本格的に広まるのは、江戸中期以降ではないかとも考えられます。堂の中の石仏には「仁多新四国丗番」と記載されており、地元の方が四国霊場を模して身近な場所に巡礼地をつくっていたことがわかります。加えて、この石仏は、三沢二十四地蔵のうちの十七番にもあたるそうです。なお、堂の傍らにも石碑があり、こちらは明治44年に「本尊阿弥陀如来」を建立したと記載されています。現在でも、7月24日に両自治会で夏まつりが行われ、1月23日には上鞍掛公会堂で心教を詠むなど、地元で大切にされています。

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