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奥出雲町遺産 第3回認定

最終更新日:2019年4月1日

奥出雲町遺産とは?認定制度については「奥出雲の遺産」のページをご覧ください。

【遺産認定No34】布勢郷神ノ村野だたら跡(推薦:布勢地区八代東部自治会)

神ノ村野だたら跡

布勢地区八代東部にある標高574メートルの大人山に向かう登山道を進むと、「神野村(かんのむら)」と呼ばれる場所があります。「村」と書きますが誰かが住んでいるわけではなく、木が生い茂る山の中です。「神ノ村野だたら跡」とされる場所は、登山道から少し外れた山中の川沿いにあり、周辺には多量のカナクソや炉壁の一部など、操業年代等について正確なことはわからないものの、かつてここで大規模にたたら製鉄が行われていた痕跡が確認できます。また、神野村に隣接する県道玉湯吾妻山線に「鉄の村(かんのむら)橋」という橋がありますが、こちらは架橋の際に神野村の地名にちなんでつけられたようです。一見すると双方は全く関係ない字のようにも見えますが「神野(かんの)」という読みは「鉄穴(かんな)」が転訛したものであるという説もあるようですので、「鉄の村」とは、「言い得て妙」とも言える命名なのかもしれません。

【遺産認定No35】金倉たたら (推薦:阿井地区奥湯谷上自治会)

金倉たたら

阿井地区奥湯谷上自治会の奥という地区に、「金倉たたら」と呼ばれる野だたら跡があります。伝えでは鉄師華蔵院安部氏が1600年代前半に開いたたたらとされ、その後、1730年頃より櫻井家の経営となり、以後1730年頃から7年間、1769年から8年間と断続的に操業したとされています。現在、たたら跡とされる場所の付近には、多数のカナクソが落ちているほか、田んぼの脇には固結滓とも思われる大きな鉄塊も残されているなど、かつてここでかなりの規模でたたらが行われていた痕跡が確認できます。また、田んぼの中には金屋子神社の跡地とされる小さな残丘があるのも非常に興味深い点です。現在でも田植えはこの小さな跡地を避けて行われているなど、地元では大切に残されています。金倉たたらは狭い範囲に野だたらの痕跡が点在し、野だたらについての理解を深める興味深い遺産であると言えます。

【遺産認定No36】大谷の「傾城岩」(推薦:八川地区大谷自治会)

傾城岩

八川地区大谷の、大慶寺跡を南に300メートル程行ったところの畑に、「傾城岩」と呼ばれている大きな球状の岩が佇んでいます。「傾城」とは、絶世の美女のことを意味し、君主までもが夢中になり城を傾けるほどであるという中国の故事が語源なのですが、なぜこの岩が「傾城岩」と呼ばれるようになったのでしょうか。詳しくは、奥出雲町文化協会発行の「奥出雲の神話と口碑伝承」をご覧いただければと思いますが、大谷在住の農民である久七と、三成地区高尾から江戸に出て、その美しさが江戸中に知れ渡るほどの花魁、高尾の悲しい恋の物語が由来であり、この丸岩は花魁高尾の墓標であるとされています。そして、九七が高尾にお守りとして手渡したとされる木像は、惣安寺に大切に保管されています。三成地区高尾にもよく似た説話(遺産認定No.3)が伝わっており、大谷と同様に丸い岩が墓として大切にされています。また、この説話に関する故高橋一郎氏の考察(機関紙「奥出雲」第37号に掲載)では、時代や採録者によって少しずつ違う内容の説話が紹介されており興味深いです。

【遺産認定No37】福原虚空蔵菩薩 (推薦:阿井地区福原自治会)

原虚空蔵菩薩

阿井地区福原自治会に正源庵と呼ばれるお堂があり、堂内には「虚空蔵菩薩」と呼ばれる右手に剣、左手には宝珠を持ち蓮台から光背の頂まで約1メートルの高さを持つ立派な木像が安置されています。「虚空蔵」とは虚空の様に無限の功徳を蔵するという意味を持っています。正源庵に安置される木像の作者は不明ですが、像の作成年代については、確定にはさらなる調査が必要ではあるものの、一説には鎌倉時代まで遡るとされています。堂名の「正源庵」については僧の正源が名付けたものとされ、元は同じ上阿井地内の石畑と梶(かち)畑(わた)の間(国道432号沿線)に建てられた後、寛保2年(1742年)に現在の場所に移転したと伝えられます。なお、雲陽誌(1717年)にも「正源菴」の記載がみえますので、移転の年代が正しいとするなら移転前には既に現在と同じ堂名で呼ばれていたものと推察されます。毎年7月2日には福原自治会全戸が集まって妙楽寺の和尚さんに来ていただいて供養するなど、地元では大切にされています。

【遺産認定No38】琴枕の「琴石」  (推薦:亀嵩地区琴枕自治会)

琴石

亀嵩地区の琴枕自治会に「琴石」と呼ばれる、長さ2.5メートルほどの石があります。この石にまつわる伝説は2つあり、一つは、昔、弘法大師がこの辺りに来て宿を求めたが、身なりが貧しく誰も泊めなかったため、仕方なくこの石の上で野宿したところ、この石から琴の音が流れてきた。その音に感嘆した大師は、「言葉荒らしの琴枕、鍋坂山の峰の細さよ」と歌を詠み、以後この石を「琴石」と言い、この地を「琴枕」というようになったというもの。もう一つは、ある時、琴をもった美女が一人、どこからともなくやってきて琴を演奏し、この石を枕にして死んだためこの石を「琴石」と呼ぶようになり、この地を「琴枕」というようになったというものです。このうち、特に美女伝説については、1717年(享保2年)に編纂された雲陽誌に記載されていますので、少なくとも300年以上にわたって語り継がれてきたものと考えられます。また、琴石の脇にある坂を上ったところに、琴石の弘法大師伝説にちなみ、地元で「弘法さん」と呼ばれている小さな祠があり、地元で毎年お盆の時期に供養され、大切にされています。どちらの説も、「琴枕」という地名の由来を説明し、地域にとって大切な伝説です。

【遺産認定No39】寄合が廻 (推薦:八川地区雨川自治会)

寄合が廻

八川地区の雨川に「寄合が廻」と呼ばれる小さな谷があります。伝承によれば、旧暦の10月、神在月に全国の神々が出雲大社に集まる際、一旦この「寄合が廻」に集まってから、そろって出雲大社に向かったとされています。地元の人によるとこの地は「あの場所の木は、どこでも簡単に木を切り倒してはだめだ」と古老に言い伝えられているそうです。奥出雲では、この他にも出雲大社と関連した伝承が複数残っています。生活空間のすぐ近くに神様の伝承が残るさまは、まさに「神話のふるさと奥出雲」と言えるかもしれません。

【遺産認定No40】坂根の道標 (推薦:八川地区坂根自治会)

坂根の道標

八川地区の坂根自治会に、ひっそりと佇む石碑があります。見ると「右ハ備後油木 左ハ伯州タリ 青瀧正兵衛」と読むことができます。昔はこの坂根地区から現在の広島県庄原市西条町油木地区、鳥取県日野郡日南町多里地区へつながる道が分岐しており、この石碑は分岐点の道標として、青瀧正兵衛さんが設置したものと思われます。この石碑から少し進んだところに、現在は使われておらず舗装もされていませんが坂根と三井野原をつなぐ道の痕跡があり、傾斜は急であるものの、坂根と三井野原間を最も短い距離で結んでいます。三井野原地区は、昭和28年12月の越県編入合併までは広島県に属し、比婆郡八鉾村油木地区の一部でしたので、「右ハ備後油木」は坂根と三井野原をつなぐ道を意味しているものと思われます。さらに、「左ハ伯州タリ」について、地元の方によれば、JR出雲坂根駅の背後に伸びる道が多里まで続いていたようです。いつ頃まで使われたものかははっきりしませんが、現在は坂根地区から日南町多里地区まで通行することはできません。また、青瀧正兵衛さんもいつの時代の方かわからず石碑がいつ設置されたかはわかりませんが、人が徒歩で移動していた時代、坂根は交通の分岐点として大いに賑わったそうです。この道標は坂根の歴史を伝える重要な遺産として地元で大切にされています。

【遺産認定No41】丹波水路 (推薦:八川地区古市自治会)

丹波水路

八川地区古市に、農業用水や防火用水として大切にされている水路があります。この水路は「丹波水路」と言われ、八川本郷地内の下横田川から取水し、流域の田畑を潤しながら原口まで流れています。この水路が丹波水路と呼ばれるようになったのは、松江藩主堀尾吉晴公の家臣であり、藩の国家老を務めた「前田丹波の守」が、今から約390年前の1630年頃より、下横田川に隣接する古市平野の開墾を始めたことに由来します。丹波の守は卓越した土木技術により、下横田川を堰き止め、水路を開設し約30haの田畑を開墾しました。この地の農民は、この業績に感謝し、これ以降、下横田川に設置された堰を「丹波堰」、水路を「丹波水路」と呼ぶようになったとされています。また、八川小学校の校庭の片隅には、昭和7年に古市開墾300年を記念し、古市青年団によって前田丹波の守の功績を刻んだ石が建立されています。400年近くにわたる時を超えて、今も生活にとって欠かすことのできない水を運ぶ丹波水路。地元ではこれからも大切に守られていくことでしょう。

【遺産認定No42】湯の廻のキャラボク (推薦:馬木地区旭自治会)

湯の廻のキャラボク

馬木地区旭自治会の丘陵の斜面に、斜面を覆いつくすかのように枝を伸ばし、胸高囲約3.2m、樹高約8mにもなる大きなキャラボクが生えています。幾つにも枝が分かれ、あたかも数本の群生のような姿となっていますが、キャラボクが1株でこのような大きさになることは大変珍しく、昭和44年に島根県の天然記念物に指定されています。この木は、かつてこの地にあった絲原家の旧宅の庭園樹であったと伝えられています。絲原家は、その始祖善右衛門が、1624年、備後から大馬木のこの地に移住し居を構え、製鉄業を営みました。 「湯の廻のキャラボク」の名は、この地の地名である「湯ノ廻」から来ていますが、絲原家の屋号も「湯ノ廻」であり、同じくここの地名から来ています。

絲原家はその後、寛政年間(1789年-1801年)に、現在の八川地区雨川の地に移住しましたが、庭園樹とされるこの木は残り、その後も成長を続け、県下随一の大樹になったものと考えられます。樹齢は400年と推定されていますので、絲原家がこの地に居を構えてからまもなく植えられたのかもしれません。なかなかの老木ですが、地域の方々に大切にされ、元気な姿を私たちに見せてくれます。

【遺産認定No43】雲崎の愛宕大権現(推薦:阿井地区雲崎自治会)

愛宕大権現

阿井地区雲崎の、地域のどこからでも見る事のできる小山の上に、地域では「あたごさん」と呼ばれている愛宕大権現が祀られ、地域で大切にされています。碑には、「文久元年」の記載が見えますので、幕末の1861年に設置されたものではないかと思われます。あたごさんは火防の神様として京都を総本社として日本全国で広く信仰され、奥出雲町内にも多数祀られています。興味深いのは、この小山は周囲を田んぼに囲まれた独立した山になっており、いかにも鉄穴残丘であるように見え、しかも小山の頂上は周囲の田んぼとはかなりの標高差がある点です。あたごさんは多くの場合地域を見下ろせるような高い場所で祀られており、雲崎のあたごさんも同じように最初から地域の中で少し高い場所に祀られていたと思われますが、もしかしたら、かつて雲崎で盛んに鉄穴流しによって、このような大きな標高差が生まれたのかもしれません。

【遺産認定No44】妙厳寺「おまき桜」 (推薦:鳥上地区中丁自治会)

おまき桜

鳥上地区大呂中丁自治会の妙厳寺境内に「苧蒔き(おまき)桜」と呼ばれる幹周4.1mの桜の大木があります。「おまき桜」とはかつてこの桜が開花したのを見計らって麻の種を蒔いたことに由来しています。享保2年(1717年)に編纂された「雲陽誌」には、妙厳寺について記載した箇所に「鎮守稲荷明神桜を神木とす」との記載があります。この時代の妙厳寺は、大呂地内の現在と違う場所にあり、約250年前、鉄穴流しによってできた現在の土地に移転してきたとされていますので、雲陽誌に記載されるご神木としての桜は、このおまき桜とは違う木であると考えられますが、妙厳寺では、300年前には既に桜が大切にされていた点は興味深く、この桜も種まきの時期を知らせる役割を持っていた可能性があります。現在の妙厳寺の「おまき桜」は、根元にコブが多数あり、ゴツゴツとした幹の肌が巨木の風格を見せ、「奥出雲町の名樹百選」にも選ばれています。

【遺産認定No45】小森「田植ばやし」伝承(推薦:馬木地区小森自治会)

田植ばやし

小森集落に伝わる「田植ばやし」は、伝えでは大正の中期、地区の杉元聡太朗が備後の国、比婆郡の農家へ奉公に入っている折、その土地で行われている牛供養を見て、習って覚えて持ち帰り、地区の若者たちに呼び掛け始められたものとされ、音頭を取るサゲ、事、太鼓、早乙女などからなる総勢20~30名で演じられています。若者たちによって始められ、地域に根付いた田植ばやしは、益々盛んに演じられるようになり、昭和43年には青年団の全国大会で優勝も収めました。現在では小馬木愛宕神社の例祭において、3年に1度演じられているほか、地区外においても数多くの招待があり、演じられています。この田植ばやしは、別名「かしら打ち」とも言われ、町内の他の地区でも演じられています。しかしながら、同じく備後地方から伝えられたとされているものの、記録によれば伝わった経路が異なるものとされており、文化の伝播という視点で見て大変興味深いと言えます小森集落では、この田植ばやしのほか小森神楽も伝えられており(遺産認定No.20)、無形文化遺産の豊かな地域です。地域の誇りとして大切にされ、継承活動も熱心に取り組まれています。

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