奥出雲町遺産 第2回認定

最終更新日:2019年4月1日

 奥出雲町遺産とは?認定制度については「奥出雲の遺産」のページをご覧ください。

【遺産認定No18】三沢町十七夜ばやし(推薦:三沢町十七夜ばやし保存会)

三沢町十七夜ばやし

三沢町を見下ろす高台にある秋葉大権現は、記録によると天明3年(1783)に建立されたもので、「秋葉さん」の愛称で親しまれています。この秋葉大権現の本山は浜松にある秋葉大権現が知られ、江戸時代の中頃から火難除けの神様として全国各地に広がったとされています。さて、8月17日の晩夏の夜を彩る秋葉山大権現祭の十七夜は三沢町の夏の風物詩ともいうべきもので、各戸に提灯を吊るして盆踊りを踊ります。中でも若者たちが中心になって山車を引き練り歩く「十七夜ばやし」が最も祭りを盛り上げ、子供たちが笛や太鼓などで面白く囃し立てる節回しは親から子へと受け継がれてきた三沢地区を代表する伝統芸能と言っても過言ではありません。かつては三成愛宕祭と並ぶほど盛大で、郡内をはじめ、大原や飯石方面からのお客もあり、近郊では稀なる賑わいを見せた祭りとして知られています。

【遺産認定No19】要害山三沢城跡(推薦:要害山三沢城跡保存会)

三沢城跡

要害山三沢城と言えば、奥出雲の名将であった三沢氏の居城として知られています。布広城を支城にした山陰で最大規模ともいわれるほど中世山城の代表的な史跡であることから、島根県指定文化財になっています。三沢氏は信濃源氏の流れで、承久3年(1221)に起こった承久の乱で戦功をあげたことにより、その恩賞として三沢の地を与えられました。その後、三沢為長(為仲)がこの地に移り住み、この地の地名をとって三沢氏と称し、嘉元3年(1305年)に鴨倉山に「三沢城」を築城しました。やがて、たたら製鉄や開墾に励んで力をつけ、出雲最強の国人武将に成長し、尼子氏や毛利氏の間に挟まれ揺れ動きながらも奥出雲の地を守り続けました。今日では、本丸から眺めるパノラマは素晴らしく、地元では、昔の山城の呼び名である「要害山」との愛称で三沢地区のシンボルとして親しまれています。

【遺産認定No20】小森神楽と神楽面(推薦:馬木地区小森自治会)

小森神楽

小森地区に伝わる「小森神楽」については、詳細な記録は残っていませんが、伝えでは天明年間(1780年頃)に伝わったとされています。また、小森に残る神楽面は明治の初め頃に、地元の有志が氏神であった杉山神社の遷宮に合わせ米を2升ずつ出し合って面と衣装をつくって再建に努力したもののようです。その後、明治37~38年頃にかけて能面衣装などを整え、若者を中心に神楽社中が結成され、ますます盛大に舞われるようになりました。最盛期には神舞七段、能舞十三段を演じることがでるようになり、すべてを演じ終えるまでに10時間を要したともいわれています。その後時代の流れとともに、しばらくの間休を余儀なくされましたが、後世に残そうと馬木小学校での総合学習として継承活動が行われています。

【遺産認定No21】川子原の山上さん信仰(推薦:阿井地区川子原自治会)

川子原の山上さん信仰

川小原の国道432号線沿いの高台に、「大峰山上さん」と呼ばれる信仰の対象の場所があります。これは、役行者で有名な奈良県吉野の大峰山脈の山上ヶ岳の霊場(金峯山)に役行者が7世紀後半に修行に入り、大峯山寺本堂や山麓の金峯山寺蔵王堂に祀られ、「大峰山上さん」という信仰として中世に広まったものです。川小原の大峰山上さんにも、修験者が籠って修業したという「籠り堂跡」や、逆さに吊るされて恐怖に耐えながらお祈りをするという「西ののぞき・東ののぞき」と呼ばれるところなどもあります。今でも、8月18日にお祭りが行われ、ご神体が神様でありながら、般若心経を唱える神神仏習合の古い形式を残しながら、地元の川子原住民によって大切に継承されています。このようなかたちで残る山上さん信仰は、奥出雲町では川子原で唯一残る大変に貴重なものです。

【遺産認定No22】加食の弘法岩(推薦:横田地区加食自治会)

加食の弘法岩

横田の六日市から加食自治会へ抜ける道路沿いに、古くから篤く信仰されてきた「弘法岩」と呼ばれる巨石があります。その昔、夜更けになってようやく加食集落にたどり着いた弘法大師は一夜の宿をもとめて頼んでまわりました。しかし、どこも貧しく、泊めてもらうことができなかったといいます。そこで仕方なく弘法大師は、この岩の下で一夜を明かして旅立ったのでした。このためこの岩を「弘法岩」と呼ぶようになったと伝えています。このことは、地域ではかなり有名な伝承であったようで、松江藩の地誌である雲陽誌(享保2年:1717)には、「経塚 小石に文字あり、弘法大師の筆跡なりという。加食村より横田への通路右にあり」と記載されているほどです。今日では、何の変哲もない岩かもしれませんが、地域住民の心が詰まったこの弘法岩を加食自治会では地域の財産と考え、きれいに整備し説明看板を立てるなどして、後世に継承していく取り組みが行われています。

【遺産認定No23】大上の保多金さん(推薦:阿井地区大上自治会)

大上の保多金さん

阿井小学校の敷地内に、「保多金さん」というちょっと変わった神様が祀られています。学校として祀ったものでもなく学校の守護神でもありませんが、金運を呼ぶ神様のようで、逆さから読んで「金を多く保つ」という意味であるとか。これは江戸時代の末に、ある若者がどこからか迎え入れて信仰したところ、その家が栄えたといいます。その後、昭和の初めに阿井小学校の敷地を拡張する際に邪魔になるということで、大上集落の関係者が相談し、大原神社へ合祀することにしました。ところが合祀して間もなくすると、関係者すべての家庭で病人が出るなどの不幸が続いたそうです。これは、保多金さんが元の場所に帰りたいといっているに違いないということになり、元の場所にもどして、毎年7月8日にお祭りを欠かさず行うようになったといいます。ひっそりと佇む保多金さんは、今でも招福と家内安全を願い、関係者15軒で大切にお祭りがなされています。

【遺産認定No24】米原の鎮守神社(推薦:阿井地区米原自治会)

米原の鎮守神社

米原集落の土地を守る氏神ともいうべき鎮守神社は、国道432号線から少し高台に位置しています。詳しい歴史はよくわかりませんが、棟札には寛文11年(1671)の棟札があるようですので、江戸時代の初め頃には既に建立されていたものと思われます。そして、石段をあがると右手には苔むした巨大な岩がもたれかかるようにあり、その裾には、「牛荒神」がひっそりと祀られ厳かな雰囲気を出しています。境内は小さいながらも鳥居を持つこの鎮守神社は、これまで300年以上も米原集落の歴史を見守り、これからも守っていくことでしょう。

【遺産認定No25】原田の三津池:(推薦:三沢地区原田自治会)

原田の三津池

出雲国風土記の三沢郷の項で登場する「阿遅須枳高日子命が沐浴をして健康を取り戻した」とされる清水が湧き出る泉は奥出雲町には二つの説があります。一つは、三沢城にある「三沢池(遺産認定12)」です。そしてもう一つが、この原田にある「三津池」です。どちらが正しいかはさておき、両方とも古くから推定地とされていることは間違いありません。さて、三津池がある山を「三津田山」と呼び、そこには「寄りんさん」と言う大きな杉のご神木があります。この少し下に「三津池」があり、地元原田自治会では神事や清掃管理や「三津池大納涼祭」と銘打ったイベントを行うなど地元住民の誇りとしてきました。

【遺産認定No26】下口の金比羅さん:(推薦:阿井地区下口自治会)

下口の金比羅さん

下口集落で篤く信仰されている「金毘羅さん」は、毎年欠かさず7月10日にお祭りが行われています。昭和54年には百年祭が行われたといいますので、明治9年(1876)に勧請されたものと考えられます。

さて、「こんぴらさん」と言えば、皆さんご存知のように四国の金刀比羅宮が有名で、海運の神様とされています。そこで、なぜ奥出雲の地で信仰されているのか疑問に思われるかもしれません。実は、江戸時代に「金比羅参り」が民間信仰として全国に広まり、海難などを防ぐだけでなく、雨乞いの守護神としても信仰されていました。このことから考えると、下口集落の鉄穴流しで広がった水田の雨乞い祈願とともに五穀豊穣を願ったと思われます。

また、ここには金比羅神のほか縄久利神社、出雲大社、宮島神、三穂両大神、諏訪神、大日如来、弘法大師など色々と祀ってあり、下口集落の信仰の中心地でもあります。

【遺産認定No27】日本の棚田百選「大原新田」(推薦:旭自治会)

大原新田

日本の棚田百選に選ばれている「大原新田」は、絲原家が江戸時代末の文久2年(1862)に開発した棚田として知られています。かつてこの地で、絲原家の大原鈩が所在していた場所とその周辺を、鉄穴流しの技術を活用して拓き、あたかも近代的な圃場整備を行ったものと見間違えるほどの大区画で、総面積4.9クタール、38枚の棚田を数える良田をつくりあげました。さらに、水田の灌漑用水は山一つ隔てた金川水系から導いており、約3キロメートルにわたり山中を這うように導水し、ため池をも設けるなど、土木技術の高さも知ることができます。また、古い地図には、「大原鈩」や「鉄穴」など、たたら製鉄に関わる地名を今日に残しています。特に大原新田をはじめとする馬木地区の棚田で育まれた良質米はおいしいお米として知られ、生産者も誇りと自信を持って耕作を続け維持管理しています。

【遺産認定No28】大原神社の元宮さん(推薦:阿井地区地雲崎自治会)

大原神社の元宮さん

雲崎集落には「元宮さん」の愛称で親しまれている石碑がひっそりと鎮座しています。石碑をよく見ますと、「大原神社元宮の地」地刻まれています。つまり、ここに大原神社の元宮があったとされ、一説には成務天皇5年(135)に創建とも伝えています。さて、大原神社と言えば、出雲国風土記(天平5年:733)にも登場する由緒ある神社として知られ、現在では上阿井の下口に立派な手水鉢や鳥居、そして杉の巨木が立ち並ぶ荘厳な境内に建立され、「大森さん」の愛称で親しまれています。もともと現在の大原神社は、大森大明神と呼ばれており、現在地に遷宮されたのは江戸時代の万治3年(1660)ことでした。その後、大原神社と呼ばれるようになったのは、明治時代に入ってからのことです。神社名が変わったり移転遷宮されることはしばしばあることで、大原神社の歴史的変遷を知るうえで重要な石碑ということが言えます。

【遺産認定No29】大呂愛宕ばやし(推薦:大呂愛宕祭り賑わい方)

 

大呂愛宕ばやし

大呂愛宕祭りがいつ頃から始まったのかは定かではありませんが、宮に残っている棟札には明和5年(1768)のものがありますので、これより古いことは間違いありません。言い伝えでは約300年以上もの歴史を持つとされています。この愛宕ばやしは、鉄師ト蔵家が京都の祇園祭りを持ち帰って地元に伝え、それを模して火伏と家内安全を願い始まったといいます。鼻高(天狗面)と獅子頭が露払いとして先頭に、紙でつくった桜の花で飾りつけられた胴太鼓には、着物を着飾った稚児が乗り込み太鼓を叩き、大屋台1台、小屋台2台、ねぶた1台が後に続いて出し物をして楽しませながら練り歩いていきます。この練り歩く様は、晩夏を彩る錦絵と形容されるほど華やかな祭りで、最後に妙巌寺境内の愛宕大権現に奉納してクライマックスを迎え、飾られた桜の花を持ち帰えり、火伏や家内安全を祈ります。

【遺産認定No30】三沢の街並み景観(推薦:三沢地区三沢町自治会)

三沢の街並み

 三沢は、戦国武将の三沢氏は本拠を置いたことでも知られ、古くから奥出雲町の中心的な場所として知られていました。江戸時代には牛馬市が開かれ、宿場町として栄えた街並みは、現在もなお往時の姿をそのまま留めています。また、代々の松江藩主は、鉄師櫻井家の岩浪庭園や眼前の内谷川に色づく京もみじを愛でに巡検する際には、必ず三沢町で昼食をとったといいます。さらに、日本中を歩いて測量したことで有名な伊能忠敬の一行は宿をとり測量をしたことでも有名です。このように、風土記に登場する三沢神社や三沢氏の菩提寺でもあった蔭凉寺が高台から見下ろして見守る三沢町の町並み景観は、あたかも江戸時代へタイムスリップしたかのような雰囲気を残すもので、まさに奥出雲の遺産というべきものです。

【遺産認定No31】伊能忠敬が歩いた殿様街道(推薦:三沢地区上鴨倉自治会)

殿様街道

 この三沢の往還は、代々の松江藩主が、鉄師櫻井家の岩浪庭園や眼前の内谷川に色づく京もみじを愛でに巡検する際に通った道として知られ、全国を測量した伊能忠敬の一行も通りぬけていった主要往還でした。この古くから通じた街道筋には古墳や神社、地蔵、一里塚など、奥出雲の歴史文化を物語る遺産がいたるところに点在しています。そこで地元では、このような歴史遺産をより多くの方々に知ってほしいと考え、奥出雲で開催される「トレールラン大会」のコースに利用してもらうなど、地元自治会の有志などで街道の環境整備や保存活動を精力的に行っています。普段何気なく通行している道筋には、幾多の人々が往来した地域の歴史が刻まれていますので、松江藩主をはじめとする歴史の人物が通り抜けた「殿様街道」を散策してみてはいかがでしょうか。

【遺産認定No32】鬼神神社とスサノオのヤマタノオロチ伝説(推薦:鳥上地区中丁自治会)

鬼神神社

鬼神神社は、出雲国風土記に登場する伊賀多気神社の元宮とされる由緒ある社で、“鬼”ぐらいに霊力が強いとされることから名付けらえたともいわれています。この神社の入口には、スサノオとイソタケルの命が乗ってきたと伝えられる「岩船大明神」が祀られています。そして、裏山にはイソタケルの命のご陵墓と伝える場所あるなど、スサノオのヤマノオロチ退治神話にまつわる伝説が残っていることで知られています。また、松江藩の地誌である雲陽誌(享保2年:1717)には、「…此所を船通山といふ、地元では船燈山ともいう、神の御船化して石となり今なお社辺にあり、昔より御燈現す大きさ毬のことし、いまにいたり是を見る者おほし、世俗龍燈と称す」と記載されています。このことからも、古くからスサノオとヤマタノオロチ退治の神話が語られ、江戸時代になっても大蛇の御霊が現れると信じられ神社であったようです。

【遺産認定No33】和泉式部の墓(推薦:亀嵩地区大内原自治会)

和泉式部の墓

亀嵩駅の裏手に「和泉式部碑」と書かれ、側面には文化13年(1817)と刻まれた墓石がひっそりと佇んでいます。和泉式部は平安時代の歌人として、紫式部や小野小町と並び称されるほどの有名な歌人です。それがなぜここ亀嵩の地に墓があるのか不思議ですが、このような説話や墓所は全国に20ヶ所以上あるようです。これは、中世にかけて京都の誓願寺派の聖(尼)が和泉式部の伝説を語り歩いたからと言う説がありますが、本当のところは定かではありません。しかしながら、大内原では「高柴の前の簾をかきあげて、大内ながむれば、琴の音ぞする」と言う和泉式部が詠んだという詩が伝えられ、集落内の泉というところに住んでいたところなど、各所に伝説を色濃く残しています。このような伝説が伝えられたのも、地域住民の皆さんの和泉式部を思う心が宿らせ、式部講というかたちで文化を育んできたものと考えられます。

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