奥出雲町遺産 第1回認定

最終更新日:2019年4月1日

 奥出雲町遺産とは?認定制度については「奥出雲の遺産」のページをご覧ください。

【遺産認定No1】佐白のヤマタノオロチ退治神話と伝説地(推薦:布勢地区佐白自治会)

4.長者屋敷跡

佐白の八頭に伝えられるスサノオのヤマタノオロチ退治神話は、松江藩の地誌である雲陽誌(享保2年:1717年)という書物に記載がありますので、江戸時代の初めには既に広く知られている説話です。長者屋敷はテナヅチ、アシナヅチの住居跡と伝えられ、八重垣神社跡の脇を登る山道を「八頭坂」といい、途中にある「八頭滝」と呼ばれる小さな滝は、ヤマタノオロチが休んだところとされています。旧県道の傍らにある「鏡ヶ池」はイナタヒメが髪を梳(す)く鏡として使ったとされ、またヤマタノオロチ退治の舞台となっています。そして、八重垣神社で結ばれ、参道入り口にあった松の木に髪の元結を掛け、この松を「 元結い掛けの松(モットイの松)」と呼ぶようになったといいます。壮大なオロチ退治神話が語り継がれる佐白の元八重垣神社周辺の神話ロマンを訪ねてみてはいかがでしょうか。

【遺産認定No2】雲崎の荒神さん(推薦:阿井地区雲崎自治会)

9.雲崎の荒神

雲崎集落は一帯が鉄穴流しで切り崩された痕跡を色濃く残す棚田が広がっているところとして知られています。さて、ここの少し高台にある「荒神さん」の愛称で集落に親しまれている信仰の中心というべき場所があります。ここには、幹周り約4.5m、樹高約30mを測るスギの巨木をご神体と崇め、山の神、荒神などが併せて祭られています。また、敷地内には、地蔵尊大菩薩の祠や力石も残され、武運長久や家内繁栄、子孫長久を祈った地域の歴史が刻まれた厳かな空間が広がります。集落の信仰の中心地であることから、夏と秋のお祭りを欠かさず行い大切に守り、先人の心が脈々と継承されています。

【遺産認定No3】高尾の傾城岩(推薦:三成地区上高尾自治会)

10.高尾太夫の墓といわれる丸石

伊賀平山の麓に、直径1メートル程の丸い石がポツンと佇んでいます。この石を「傾城岩」と呼び、江戸吉原の花魁(おいらん)高尾太夫の墓と伝えられています。その昔、八川地区の大谷に九蔵という者が江戸にある紺屋という染物屋に奉公に出かけ、そこで高尾集落出身の高尾という花魁と恋仲になり、結婚の約束をしたのち、九蔵は先に帰郷したという。翌年、高尾太夫は年季が明けたので、九蔵に一刻も早く逢いたいと思い、急いで大谷へ訪ねていったが九蔵は亡くなっていました。悲しみに打ちひしがれた高尾は、生まれ故郷の高尾集落に戻り岩穴の中に入って、九蔵をおうように自ら命を絶ってしまったといいます。この丸い形の岩が、「傾城岩」と呼ばれ、女性が何人かかっても動かないが、男性だったら一人でも動くといわれています。それは、高尾の亡魂が異性恋しさに震え動くからであると伝えられています。

【遺産認定No4】川子神社と河童伝説(推薦:阿井地区川子原自治会)

11.カッパを祀るカワコ神社

川子神社は、古来より玉日女命を祭神とし、古老の伝えによれば、阿井川の下流よりワニが恋い慕って登ってくるので、困った玉日女命が大きな石を投げ込み塞ぎ、現在地にお座りになったという伝説を残しています。また、有名な伝説に河童伝説があります。その昔、川子原の竜が淵にカワコ(河童)が棲んでおり、馬を淵の中へ引きずり込もうと馬の尻尾をつかんだが、馬の力にかなわず長栄寺の境内まで引きずられていったという。カワコは頭の皿の水も少なくなり、和尚さんに簡単に捕まり、「私が悪かったです。命だけは助けてください」と一生懸命に頼んだので、和尚さんは、「そんなに頼むなら許してやろう。だが、竜が淵の岩に文字を刻みつけ、その文字が消えるまでは決して悪さをしてはならないぞ」といって、淵に逃がしてやりました。それ以来、カワコは姿を見せなくなったと伝えています。興味深い伝説を残す神社として地域で親しまれています。

【遺産認定No5】阿位八幡宮の押輿神事(推薦:阿井地区八幡自治会)

12.八幡宮阿位

阿位八幡宮は、永長元年(1096年)に奥湯谷の米山城主であった佐野氏が京都の石清水八幡宮から分社し勧請したものと伝えられている古い社です。ここでは、10月1日の例大祭に行なわれる押輿神事は、神輿(みこし)を投げ落とすという非常に珍しい伝統行事が伝わっています。この行事は、神事に携わる当家が一切の権限をもって執り、9月1日の注連縄張神事の「古伝祭」を行い押輿神事に備えます。いよいよ例祭日になると、神社の参道をはさみ、上の集落と下の集落とに分かれ、選ばれた4人の祭事番により、神輿を石段上から投げ落とします。石段下ではこれを受け止めて吾の地域へ向けて掛け声勇ましく押し合い競り合ううち、頃合いを見て、当家司が停止させ、翌年の豊作と家内安全を祈願するものです。このような祭り行事は他に類例がなく、今日も古式に則り継承される伝統文化として、地域の誇りにしています。

【遺産認定No6】大上の廻り堂(推薦:阿井地区大上自治会)

13.大上の廻り堂

この堂には、阿井村のために犠牲となった人々の歴史が刻まれ、先人を弔うために建立された多くの石製の菩薩像が安置されています。

古記録に、萬治3年(1660)秋に郡奉行が瀧野九郎右衛門という者にかわり、この奉行は気性が凶暴かつ理不尽で、年貢未納の鉄師や百姓は牢屋あるいは殺されるものが多かったといいます。翌年の寛文元年(1661)には「仁多郡鉄方張付けに上がる。内谷六兵衛 落合善左衛門 下阿井 庄屋藤右衛門 三人也」と記載されています。そうすると、廻り堂にある菩薩像に刻まれている長谷川六兵衛なるものは、内谷集落の六兵衛であり、落合善左衛門は同人、福庭氏というのが庄屋藤右衛門ではないかと考えられます。

この廻り堂は、阿井村のために罪を犯して犠牲になった者を、死後の世界で少しでも罪が軽くなってほしいとの思いから建立された由緒ある御堂として、大切にされています。

【遺産認定No7】大原神社(大森大明神)(推薦:阿井地区下口自治会)

18.DSCN1305

地元の阿井地区では「大森さん」の愛称で親しまれている大原神社は、出雲国風土記(天平5年:733年)にも登場する由緒ある社として知られ、大名牟遅(おおなむちの)命(みこと)と玉比女(たまひめの)命(みこと)をご祭神としています。もともとは、上阿井の雲崎に勧請されていたと伝えられ、江戸時代の万治3年(1660)年に現在の地に移転遷宮しました。また、玉比女命といえば、川を大きな岩で塞いでワニ(サメ)が登ってこれないようにしたとの伝承を残す「鬼の舌震」を思い浮かべますが、玉比女命を主祭神としているのは、全国でこの神社だけのようです。玉比女命と大原神社との繋がりのロマンをかきたてます。神社入り口には、鉄師櫻井家が寄進した立派な手水鉢や鳥居が出迎え、長い石段を駆け上がると、杉の巨木が立ち並ぶ荘厳な佇まいが、風土記の時代から繋がる時の流れを感じさせてくれます。

【遺産認定No8】加食のオオサンショウウオ生息地(推薦:加食オオサンショウウオを保護する会)

20.オオサンショウウオ

加食川は昔からオオサンショウウオが多く生息することで知られていました。そこで、これは地域の“タカラ”と考え、「ハンザケの郷 加食」として自治会での活動を始めました。オオサンショウウオは国の特別天然記念物になっていることから専門家を招いてオオサンショウウオの研修や指導のもと、手づくりで看板作製や巣穴づくりなど、保護活動や河川環境整備に取り掛かりました。また、文化祭ではハンザケ餅もつくり非常に好評で、瞬く間に売り切れとなりました。子どもからお年寄りまで加食集落全員が参加しての活動により、世代間交流をとおして地域コミュニケーションの広がり、楽しみながら地域活性化を図っています。

【遺産認定No9】イザナミノミコトが宿る岩穴(推薦:阿井地区米原自治会)

22.伊弉冊集落のイザナミ神社

上阿井を中心に国生みの神であるイザナミノミコトにまつわる伝承地が数多く残っています。さて、阿井地区に「伊弉冊(いざなみ)」というちょっと珍しい名前の集落があります。伝えによるとイザナミノミコトが降り立ったところなので、そう呼ばれるようになったといわれています。そして、ここにイザナミノミコトが一夜を過ごした(一説には亡くなった)ところとされる広さ十畳ぐらいある洞窟があり、古くから信仰の地として、今でも地域の人たちで大切にお祭りがされています。また、イザナミノミコトが葬られた地は、広島県の比婆山御陵など全国に諸説ありますが、猿政山であったとする説もあります。猿政山は、風土記に登場する「御坂山とされ、「山に神の御門あり  故、御坂と云う」と記されています。このことから、風土記時代には既に、猿政山は神様の山とされていたことがうかがい知れます。

【遺産認定No10】龍の駒たたらの地蔵さん(推薦:鳥上地区福頼自治会)

23.福頼1

鳥上地区福頼集落の日南町多里を越える県道横田多里線の谷間を「龍ノ駒」と地元の人は呼んでいます。ここからは縄文時代の土器が出土したことでも知られ、古くから人々の営みがありました。さてここには、たたら製鉄で亡くなった方を弔うために建立された地蔵がひっそり佇んでいます。享保17年(1732)と刻まれたものもあり、古くはト蔵家が操業した「龍ノ駒たたら」がありました。その後、大原郡の青砥家が、最後に明治37年から42年にかけて絲原家が操業したことが解っています。絲原家の明治の記録を見ますと、250名余りがたたら製鉄に従事していたことが記載されており、賑やかだった在りし日を感じさせます。

【遺産認定No11】義民を祀る十王堂(推薦:鳥上地区代山自治会)

26.十五堂(じゅうわさん)

代山の旧道沿いに何気なく佇むこの「十王堂(じゅうわさん)」には、約400年の前に実際にあった奥出雲町の歴史と地域の心が詰まっています。慶長2年(1597)に毛利輝元がこの地を治めていた頃、大呂村には代官であった村上庄兵衛という鉄奉行がいました。この奉行は、人柄が悪く無理なことを押しつけたりする振る舞いが多くあり、村人たちは大変憎んでいました。そこで村人たちは相談して、奉行を焚き火の中に投げ込んで跡形を残さぬように焼き殺してしまったのでした。その後、事件が発覚し、厳しい取り調べのすえ、関係者は磔(はりつけ)の刑になりました。この知らせを聞いた村人たちは悲しみ、死後の世界で少しでも救われるように願って建てたのがこの十王堂です。その中には9体の仏像が祀ってあり、村人を代表して事件に関わった9名の若者と言われています。人を殺した罪人とはいえ、地域のために立ちあがり犠牲となった者への気持ちの表れです。

【遺産認定No12】要害山の三沢池(推薦:要害山三沢城跡保存会)

28.三沢池

要害山三沢城の中腹にある湧水池は、どんな日照りでも枯れることなくこんこんと清水が湧き出ています。出雲国風土記に所載された「三沢」の地名発祥の地で、大国主命の子で阿遅須枳(あじすき)高日子(たかひこの)命(みこと)が沐浴をして健康を取り戻したとされる由緒ある池と伝えられています。その由来により、出雲国造が朝廷に神賀詞を上奏する際にみそぎとして使用した池といいます。また、戦国時代には三沢氏は「刀砥ぎ池」と呼び、槍や刀を磨いて武運長久を祈ったと伝えています。明治時代には、この湧水が諸病に効目があるということで評判となり、賑わったといいます。現在、島根の名水百選にも選ばれ、若返りの泉として親しまれています。この地を訪れると、厳かな雰囲気に奥出雲の戦乱の世を治めた三沢氏の面影が浮かぶとともに、風土記の時代にタイムスリップしたような気持ちになります。

【遺産認定No13】三沢川のホタルとトウトウの滝(推薦:要害山三沢城跡保存会)

29.トウトウ

三沢川を流れる名瀑布と知られるこの滝は「滔々(とうとう)」という意味で、水が勢いよく、また豊かに流れるさまを形容して、「トウトウの滝」と呼ばれています。また、昔はたくさんいた三沢川のホタルが少なくなったことから、原田自治会ではホタル再生プロジェクトを立ち上げて、ホタルの生育に適した環境づくりに取り組んでいます。今では6月中旬から7月上旬にかけて、たくさんのホタルが乱舞し、幻想的な世界に浸されます。途切れることなく滔々と流れる三沢川のせせらぎと名瀑布の音が、三沢の郷の季節の移り変わりと、悠久の時の流れを感じさせてくれます。

【遺産認定No14】義民傳六の碑(推薦:鳥上地区中丁自治会)

32.義民伝六の碑

江戸時代の文化12年(1815)は、近年の天候不順から奥出雲町の全域は大凶作となり、年貢を払うことができず村人は大変困っていました。この窮状を何とかしようと伝六をはじめとする郡内各村の代表者は徒党を組んで松江に向かって直訴に出発しました。八代集落の佐白までたどり着いたところで郡役人に止められ、「おまえらの窮状は良く心得ておるので、村に帰って藩からの回答を待て」と諭され引き返しました。しかし、藩はこれを百姓一揆であるとして、首謀者の傳六ほか4名を打ち首、このほか郡追放などの所払いや閉門など十数名が処罰され、不心得を陳謝させるために各村々から謝罪文を提出させるという厳しいものでした。この碑は、このような事件があったことを知った当時の鳥上青年団が、長い歳月を経ようとも郷土を守ろうとして命を賭した先人たちへの感謝の気持ちから、大正14年(1925)に建立されたものです。

【遺産認定No15】青木實三郎の農村図画(想画)(推薦:馬木地区青木實三郎顕彰事業実行委員会)

青木實三郎は、明治期においての図画教育の基本であった画手本の絵画を忠実に模写する「臨画」という図画教育から、自然豊かな農山村で四季を通して美しい山々などの自然や風景をはじめ、人々の日々の生活などを子どもたちに描かせました。この画期的な指導画は、昭和2年に「国際交歓全国学生図画展覧会」で絶賛され、翌年には、プラハの国際美術教育会議で紹介され、世界にその素晴らしさが知られることとなりました。誰もが見向きもしなかった青木實三郎の先駆的な教育実践は、「想画」と名称され、わが国の美術教育界に大きな足跡を残し、今日も注目を集めています。平成26年にこの価値が認められ、指導を受けた当時の子どもたちの絵画は、奥出雲町指定文化財に指定されました。

【遺産認定No16】鋳物屋の歩く凸石(盗改)(推薦:阿井地区鋳物屋自治会)

38.盗改め

鋳物屋生活センター(自治会館)の庭先に「盗改」「凸石居盗家」と刻まれたへんてこな石があります。よく見ると江戸時代の末である慶応3年(1867年)の9月に造られた古いものです。以前は、阿井公民館のところにあった阿井支所の庭先に置いてあったそうです。さて、昔は旧正月の20日に集落の自治組織(自治会)の総会が行われて、「人気改め」とか「灸(きゅう)す正月」などと呼んでいました。そして、この日は、他人の犯した悪事や非行を暴露し、集落で制裁を加えることを決める総会でもあったのです。「灸」と聞くと、子どもの頃、悪さをしてお灸をすえられたことを思い出す方もおられると思いますが、集落で悪事を働いた家の庭先にこの石を運び、反省(灸をすえる)させる集落での制裁でした。往時の集落の自治組織を知るうえで貴重な文化遺産で、町内にいくつか残っています。

【遺産認定No17】追谷集落のたたら景観(推薦:鳥上地区追谷自治会)

39.鉄穴流し跡地に拓かれた追谷集落の棚田

追谷集落は、鉄師ト蔵家が本拠を置いてたたら業をなした地で、明和5年(1768)から大正末年まで150年を越える長きにわたって“原鈩”を操業しました。また、昭和13年には帝国製鉄株式会社が、原鈩跡を借り受けて、“叢雲鈩”として終戦まで操業しました。まさに、たたら製鉄とともに歴史を刻んだ集落といえます。これまで、たたら製鉄といえば、日刀保たたらや絲原家、櫻井家ばかりが取り上げられていましたが、追谷自治会が旧鉄師の一人であったト蔵家のことも忘れてほしくないと活動を始められました。追谷集落の鉄穴流し跡に拓かれた棚田景観を眺める展望デッキづくりや原鈩跡周辺の環境整備などを進めて、鉄師ト蔵家と歴史を刻んだふるさとに愛着と誇りを持って活動を推進しています。平成26年3月に、追谷集落は国の重要文化的景観に選定され、さらに景観保全に努められています。

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